常野さんとの出会い/米田 量

常野さんを最初に知ったのは、不登校50年のインタビュー記事からだった。その時は、特に常野さんに強い印象があったわけではなかったが、不登校が自分の原点であり、そこを参照項にしないと何事も考えられないという強い言葉は記憶に残っていた。

ことそこに関しては、人から何を言われようとも、別のように考えることは拒否すると言っていると思った。この人は理屈を述べていたとしても、理屈の人ではないと思った。彼の結論は、その一点を固持することによっておそらく既に決まっているのだと思った。

 

常野 いまの私の精神病と登校拒否体験が、どう重なるのか重ならないのかはわかりません。でも、私は登校拒否という体験が自分の原点だと思っていて、なんでも登校拒否とつなげて考えようとするところがあります。大学ではフェミニズムやカルチュラルスタディーズを勉強しましたが、常に登校拒否体験を参照しながら、そういう理論を学んでいました。

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山下 ご自身のなかで、何がそんなにworseなのですか。
常野 精神の病が問題ですかね。あと、バイトは再開するかもしれませんが、現時点で無職で、障害年金はもらっていますが、将来の経済的な心配があります。
山下 くどいようですが、それは登校拒否経験とダイレクトにつながっているんでしょうか。
常野 先ほども言いましたが、私の人生の原点は登校拒否なので、すべてのことは登校拒否とつながっているんです。そこを参照項としながらでないと、何ごとも考えられません。

 

そしてこのインタビューを読んで一週間後ぐらいに常野さんは急に亡くなった。知ったばかりの人がこの短い間に亡くなることに衝撃を受けた。加えて常野さんは自分より二歳若かった。常野さんという個人の実際を全く知らない。しかし常野さんの死は僕の感じ方を変えた。

僕も中学二年から不登校だった。大検をとり、学部では偏差値が高いところは落ちたのに、大学院進学で試験が英語と小論文だけだった京大に入って、学歴が高くなった。全く不適応だったが、学歴はステイタスになってその後人から認められやすくなった。

もちろん常野さんのほうが圧倒的に優秀なのだけれど、何か自分と常野さんが同じような感じがしたので揺り動かされたのだろう。

それまで僕にとって、今後もしばらく生きていかなければならないというのは重いことだった。正社員になるようなメンタルも動機もなく、不安定で、なにがしかの自営業ができればと思いつつ、何年経っても自営業の確立はできなかった。フリーターとして、事故や病気がなければ、この先10年ぐらいは普通に生きられるだろう。だが年も40をこえ、今の生活はだんだんとではあるが、不本意に目減りしていくもののように思えていた。

週に2回の夜勤以外は自由で、時間がある生活をしている。だがその時間を持て余していた。だが持て余していたといっても、その時間を「将来のために」何か資格でもとって確実にしていくというようなことに割く動機は全然生まれなかった。さして面白いとも思ってないのにSNSで時間を潰すようなだらだらした時間を過ごしていた。

ところが常野さんの死後、ふと気づくと時間を持て余して辛いと思うようなことはなくなっていた。時間があるのにそれを「有意義」に使えないのに苦しむという自家中毒のような状態が薄れていた。一方、だらだらと時間を潰すSNSやネットが本当につまらないという感覚が高まった。惰性で興味をもったふりをしていたことに対して、エネルギーを割くことができなくなった。自分を充す次の何かに移行できているわけではないが、こういうふうにつまらなさがいっぱいになるということは、いい高まりだと思う。今まで踏み出さなかったことに少し踏み出すようなことが多くなった。

 

もう一つ、常野さんの生き方から自分を見ることができたことがある。

それは彼の強烈に実感を求めるような生き方からだ。

ネットで少し検索した程度の情報だけれど、常野さんが東浩紀さんの番組に乗り込んだり、ヘイトスピーチのカウンターとしてその身を投げ出したこと、不登校を醜いものとして受け入れさせるというような、世間と厳しく対峙するスタンスをとることなどは、彼にとって必要な、極度に強い精神的実感をもたらすためにあったのではないかと僕には思えた。

常野さんは強烈に対象とぶつかることを生きていたのではないかと思った。その思想についても、冒頭に転載した山下さんとのやりとりから想像されるのは、思想はいわば常野さんが強烈に闘う必然を提供する理由としてあればそれでよかったのではないか。

栗田隆子さんの常野さんへのメッセージのなかにも、常野さんの「恐ろしいほどの酒量」と「絶え間ない喫煙」についての言及があった。抱えきれないものを抱え、それを生きるということを常野さんはしていたのではないか。

 

私は常野さんの、特に亡くなる最後の1年くらいの震える手、恐ろしいほどの酒量、絶え間ない喫煙の姿に対して、本当に失礼だと思いつつも、「生きづらさ」という言葉がどうしても頭をよぎってしまった

 

自分の不登校時におこったことを思い出していた。強烈なさいなみがあって、自分がそれまで拠っていた自分が破綻したとき、今後経済的に豊かになるとか、結婚して家庭をつくるとか、そういうものはもう自分を動かす動機にはならなくなっていた。それを得るために今の苦しみを我慢するとか、何の割りにもあわなかった。そんな虚しい「人参」ではもう動けなくなっていた。

廃人のようにやる気がなくなって、(死ねもしないのに)無理して生きるなら死んだほうがいいというのが自分のリアリティになった。別にそんなリアリティを持つことがいいとは思っていないが、どうにもならなかった。今のところ何をやってもそのリアリティなのだ。わけわからないことに踏ん張るのがもう嫌だし、やろうとしてもできなかった。虚しくてできない。

何か強烈な自己破綻の体験をした人は、実際に体やリアリティが変わってしまって、もうそのようにしか体を動かせないし、自分を動機づけることができなくなるのではと思う。僕は人にぶつかるということについては極度に恐れがあった。それを避けて行き詰まりをつくるという生き方だった。

一方、能力もあり、人にぶつかることも恐れない常野さんは、自分自身のリアリティを表現するために、強烈にぶつかれるものにぶつかっていくことに動機づけられていたように見えた。それは自分に巣食うさいなみを強烈さをもって打ち消すことであり、その表現をもって世界と関わっていくことであるのかと思った。

問題を解決し、長く生きるのがいいと前提している人にとっては、常野さんの強烈な生き方は本当に自分に向き合ったものではなく、強烈な実感を得ることで向き合いを避けたと捉えられるかもしれないと思う。

けれど、僕は今、そういう成熟志向とかどうでもいいもののように思える。

北海道のべてるの家の人たちは強烈にエネルギーを使ったため、寿命が短いことも多いらしい。問題を解決しなかったりしないまま死んだらその生は残念だったり、中途半端だったのだろうか。

 

正しさというものがあるだろうか。

何かあるべき到着点を設定するなら、ある行為は無駄であったり、足りなかったりするだろう。だが誰もがその「ゴール」に到着するために十分な時間や資源を持ちうるだろうか? 僕には世界はまるでそのようには思えない。与えられるものも奪われるものも自分で決めることはできない。

持っているものでできるだけのことをした。世界と自分なりのぶつかりをした。個人としてやることは、それだけではないだろうか。人の納得というところにおいて重要なことは、自分として持っているものを使って、溜まっていたものを十分に出したかどうかなのではないか。

 

直接会ってもない常野さんについて思ったことは、全て勝手な想像だ。だが常野さんのその生き方が僕に状態の移行をもたらした。僕は常野さんの死によってつかまっている沼から少し移行することができた。それは確かだ。勝手ながら、常野さんは、別の可能性を生きた自分として認識され、それが僕の日々の感じ方を不可逆的に変えた。これが僕の常野さんとの出会いだ。

誰かが亡くなると、その人は詩になるのかと思った。自分にとって、その人は何かの一つのメッセージとして、一つの問いとして、せまってくる。

 

2018年5月24日 米田 量

A Friend Indeed/ドウツマサヨ

私が常野(さん)を最初に認識したのは、おそらく2009年前後にネットで誰かに絡んでいるところだった。面倒くさそうだと敬遠していたある日、彼が英語ブログを持っているのに気づいた。見てみて、なによりもその英語に感銘を受けた。ほぼ直しが要らないような英語を第二言語として書けて、あのように「変」なひとというのを、当時の私は見たことがなかった。

はじめて話したのは、2017年の6月くらいだっただろうか。絡んでくるひとという先入観はほどなくして崩れ、秋の後半からしばらくは日々夜明け近くまで通話するようになっていた。彼は、こちらの言い草をたしなめてくることや問うてくることはあっても、触れてほしくない話題に立ち入ってはこなかった。私は、Twitterで垣間見るだけの言動で決め付けて、その背後の人間を知る機会を逸してきた自分を恥じたし、同時にあの言動はなんだと本人を責めもした。

私のほうは好きに質問を投げ、彼を糾弾もしていたと思うのだが、彼のほうは「友だちだから」と言って、納得できなくても引き下がるような場面が何度かあった。「友だちなんだから」もうちょっと共感を示してくれない、と言われたこともあった。このひとは友だちに甘えたいんだな、と私は思ったが、一方でこの友だちがどれだけ自分を甘えさせてくれていたのかについては、考えていなかった。

彼を知ることのできた短い間、私は自分に都合のいい面だけを見ていたのかもしれないが、彼の「友だちだから」という言葉と態度に助けられた一人だった。たとえ彼のことを何も分かっていなかったとしても、それを信じたいと思うのだ。

友だちでいてくれてありがとう。もっと早く知り合いたかった。もっと長く、ずっと友だちでいたかった。

2018年5月7日 ドウツマサヨ

「生きづらさ」と「左翼の言葉」の光と影 ~信頼をどう作るのという問いは、そしていまも続く~ / 栗田隆子

常野さんの訃報を聞いた時、まず思ったこと。言葉にならなかった思いは残念ということ。それにまずは尽きる。

 だがそれにしても何が残念だったのだろう?常野さんにしょっちゅう会っていた訳でもなく、とても親友などとはいえない。それにブログやツイキャスを待ち望んでいたファンでもなかった。もちろん亡くなって悲しい、ショックだ、死を悼むという気持ちはある。しかし、そんな思い以上に、いわば引っかかる思いとしての残念な気持ちが私にはある。

 そう、その残念の背景にあるもの。それは、「引っかかり」である。

彼に引っかかるものを私が個人として感じていたということ。それに対して彼がどうしようとしたのか、どうしようとしているのか、結局どうしたのか、ということをもっと知りたかったし、彼だけでなく広く共有したかった。それはまさに「左翼的な運動」と呼ばれる側面においても、「生きづらさ」という言葉で表されるようなもどかしい側面においても重要だと私は感じるからだ。

 ところで、生きづらいという言葉に「甘ったれを感じる」という小沢牧子さんは、常野雄次郎さんの思想を非常に支持されていた。

不登校50年証言プロジェクト #04 小沢牧子さん

しかし、ある程度彼を見知っていた私としては、そのこと自体、ひどく困惑するものだった。

なぜなら、私は常野さんの、特に亡くなる最後の1年くらいの震える手、恐ろしいほどの酒量、絶え間ない喫煙の姿に対して、本当に失礼だと思いつつも、「生きづらさ」という言葉がどうしても頭をよぎってしまったからだ。

無意味な質問とも思いつつ、本人に私は思わず

「アルコール依存なの?」

と尋ねたくらいである。ご本人も酒量が多い自覚はあったようだが、医者からその判断を下されてない、と去年の九月くらいに話をしてくれた。

そしてその彼の部分を知らないか、見ようとしない人であればあるほど、なんというか、私の視点からみるといわば、彼が演出した(私を含め、誰でもそうでありたい演出した自分というのはあると思う。演出自体を否定する気はない)「そうでありたい彼」だけを見ようとしているのではないか?という思いが頭を離れないのだ。彼の一部というか、演出部分を認めない、見ようとしないということは、ただ彼を知らないという意味ではなく、この社会の何かを見ずに自分自身を自衛してるだけではないのではないか、とどうしても違和感を覚えてならないのである。

 ところで、常野さんはある管理教育反対の活動家をかつて評価していた。そしてその活動家は性暴力を起こしていた。

 その人物を評価していたことに私はドン引きしたということを、本人にTwitter越しで伝えた。本人のtwitter越しの回答は

彼の反管理教育活動家としての業績に引っ張られ、レイピストであるにも関わらず評価していたことを後悔し、その動画は去年くらいに削除しました。他に前記業績をレイピストであることに触れずに紹介しているエントリーもあるため、随時、容認してはならないとの断りを追加していきたいです。とあった。

さらに私は、

「わかりました。ただ正直、自分のその部分に踏み込まずに菅野完の批判をしてたことに、驚きを禁じ得ません。ブーメランという言葉がありますが、まさにブーメラン的な事態だと思います。もちろん私もそのブーメラン的な過去があったら引き受けていかねばと思う次第です

書いたところ、

「おっしゃる通りだと思います。業績に引っ張られて性暴力を軽視するというのはまさに菅野現象です。ご指摘ありがとう。他にも、自分が忘れてるだけで、似たようなことをやってるかもしれません。また、自分自身のセクハラ行為についても振り返らないといけないとおもいます。」

とあった。もともとその前に、

 「なるべく自分で振り返り自己批判の注釈をつけること。ただし時間がかかるので、指摘されたときにはその部分を優先的に検討すること。という、中間策でいこう。 ってわけで、 http://toled.hatenablog.com の新規エントリーだけでなく、過去ログにもなんかあったらぜひ!」

と書かれていた

だが、この左翼用語で言うところの「自己批判」は、その後下記の言葉以上にはほとんどなされぬままに常野さんはこの世を旅立ってしまったと思う(常野さんの自己批判的な公の発言をもしご存知の方がいたら、ぜひ教えていただければ嬉しい)。そもそも自己批判というものが本当にできるのかどうかも考えたいし、また、自己批判が仮に出来るとして、それはいかなる条件のもとに可能なのか?それも本当は彼とともに、彼の言葉とともに考えたかった。

「たとえば、@kuriryu さんより、外山恒一がレイピストであることに触れずに反管理教育の活動家としての業績を私が評価していたことについて指摘を受け、改めて反省した。外山がレイプした(と『見えない銃』)で自慢していた当時、彼は左翼だった。性暴力は左翼の闇、もっと言えば文化である。」

 

常野さん自身の言葉遣いは後年に至れば至るほど「自己批判」「連帯」と言ういわゆる左翼の言葉っぽいもので綴られてきた。でも、彼の震える体は、本当はその「言葉」や「概念」以上の、あるいはそれ以外の訴えや思いや可能性を秘めていたかもしれない。

震える体と、彼の「自己批判」や「連帯」という言葉が合わさる果てに彼の原点である「登校拒否」があったのだろうか。今となっては、それら全ては、私の宿題としてブーメランのように戻ってくるばかり。でも、私は、生きづらさと左翼活動の大事なところを取りこぼさず、人と人との信頼関係を生み出されていくことを、いまもこの世にとどまりながら、考えていこうと思っている。単純な感謝ともいえぬ、複雑な「残念」な思いを常野さんに感じながら。

 

 

 

「学校廃棄論」を真に受けて考えてみる/野崎泰伸

■生を凝視するということ
 常野さんには、たくさんの刺激をいただきました。
 実際にお会いしたのは3~4回だったと思いますが、それ以上に、ご著書やブログでの発信に心を動かされました。

 貴戸理恵さんとの共著である『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』の常野さんのパートには、以下のようにあります。

「リアリティーのないハッピーエンドはもうたくさんだ。逆に僕は、こう言いたい。登校拒否は病気だ、登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。登校拒否は暗く、汚く、臭い。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ/肯定できるだろうか、と」

 私は、この文章を読んだとき、日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」の横田弘氏が1970年代に書いた「行動綱領」の一部を思い返しました。それは、次のようなものです。

「一、我らは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する。
 我らは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ、且つ、行動する」

 否定的に眼差される自分たちの生をありのまま描くことの大切さ。「明るい物語」などという「ごまかし」を暴くこと。そのように、徹底的に自分の生を凝視してみること。そこからしか、社会と対峙する自分の生を真に肯定することなどできない、そこからしか、矛盾だらけの社会を変革することなどできない。私は、常野さんの言葉を横田氏の言葉と並列させることで、自らの生の強靭な肯定と、それを阻止する社会への徹底的な抗いとを見て取るのです。
 私自身は、身体障害者であり、不登校経験もひきこもり経験も特段ありませんが、常野さんの言葉には強く共感した部分が大いにありました。それは、「構造的にマイノリティに捨て置かれた立場の生を、いかにしてごまかすことなく肯定しうるか」というテーマに正面からぶち当たってこられたからではないか、と私は感じるのです。

■学校を廃棄する/しない、教育を廃棄する/しない、について
 常野さんの「学校廃棄論」は、あまりにも強烈でした。私の思考は何度も揺さぶられました。ただ、あまりに強烈過ぎて、よくわからない部分もあったことは事実です。
 常野さんの最後のインタビューとなった『不登校50年証言プロジェクト』で、常野さんは次のように語ります。

「私は学校を廃止すべきだと思っていますが、「学校をなくす」というと、よく「給食でしかご飯を食べられない子はどうするんだ」「文字の読めない子はどうするんだ」と反論されます。しかし、学校をなくすというのは、いまの社会をそのままに、そこから学校だけを引き算するということではなくて、社会全体のあり方、社会の仕組みを変えることです」。

「私は学校に行かない人の人権が十全に保障されるためには、学校をなくさないといけないと思ってるんです。あなたは学校に行ってください、私は行きません、私は私でしあわせです、というわけにはいかない。なぜなら、図書館だろうが、公園だろうが、映画館だろうが、どこにいようと、すべての社会領域を学校が埋め尽くしているからです。そこに外部はない」。

「学校を廃止するには、この社会全体を変えることが必要なんです。それは日本の植民地主義を精算することであり、健常者中心主義や家父長制を変えていくことであり、資本主義を変革することでもある。そして、それらは同時に行なわれなければならない。ただ学校をなくすだけでは問題は解決しないし、ほんとうの意味で学校はなくならない。そうでなければ、学校よりもおそろしい、いやな教育ができあがってしまうと思います」。

 何をバカげたことを言っているのだ、と思う人もいるかもしれませんが、私は、バカげたことだと思っているわけではありません。常野さんのこの主張は、一度は真に受けて考えられるべきことであると思います。その上でなお、常野さんに問うてみたかった。いまとなってはもうかなわない、「それはあなたたちが考える責任があるのだ」と言われもしそうですが。
 このプロジェクトの証言を読む限りにおいて、常野さんご自身は、学ぶということが相当好きそうだと私は思いました。私自身、常野さんと同じく、学ぶことが好き(なエリート身体障害者)ですし、学ぶことが特権であるとも思います。いったん身につけた「知」を「学び捨てる」(スピヴァク)ことも必要でしょう。しかしまた、「特権」であることを自覚することや、「学び捨て」なければならないことには、私たちはどうやって気づくことができるのでしょうか。別言すれば、「学校」を廃棄したのちに、「教育」もまた廃棄されなければならないのでしょうか。
 私も参加させていただいた、4月24日の大阪での「偲ぶ会」で、常野さんは生前、学校に行かない/行けない人たちに対して、「路上で学ぼう!」とおっしゃっていたと聞きます。私も大賛成ですし、常野さんらしいなと思いました*1。しかし、ある疑念が私の中に浮かんできました。

「常野さんは学校の廃止、いやともすれば教育の廃止を主張されてきたが、これは矛盾しないのか?」

 私は、「学ぶこと」と「学校制度/教育制度」とは分けて考えるべきだと思います。「学校制度/教育制度」が、植民地主義、健常者中心主義、家父長制、資本主義、異性愛主義等々を疑うことなく前提としながら、「学ぶこと」を取り込み、学校や教育の専売特許にしてしまったことに、問題の核心があると考えます。よって、私は、「学校廃棄」「教育廃棄」ではなく、「学ぶこと」を、差別に毒された「学校制度/教育制度」から救い出すことに、その問題へとアプローチする糸口があるのではないかと考えています。
 私は、「学ぶこと」の核心にあるのは、「根源的な受動性からの主体的な批判性の創造」にあるのではないかと考えています。どういうことか、説明しましょう。常野さんのように差別に対して敏感な方は、それが差別だと理解されたうえで、自分から主体的に学びを求められ、そこから行動に移されたのではないかと推察します。だからこそ、管理されるだけの「学校制度/教育制度」など不要だと思えたのではないでしょうか。ところが、私などそれほど差別に対する感度というものは高くはなかったものですから、ずっと自分の障害というものを「個人に原因があるから生きづらいのだ」と捉えていたのです。大学に入って、「青い芝の会」を中心とする障害者たちが、キャンパスに入ってきて、自分の介護者を見つけようと、学生たちに介護者募集のビラを撒いてたんですね。それはたまたま大学の構内であっただけなんですけど、「自分の知らない世界を突きつけられる」という経験こそが、「学ぶこと」の原初的な形だと私は思うのです。それまで知らなかった世界なのですから、それまでにそのことについて「主体的に学ぶ」などということは、原理的にはありえないわけです。だから、「学ぶこと」の最初にあるのは、「未知の世界が私にどうしようもなく到来してしまうような経験」ではないかと思うわけです。
 突きつけられて、揺れ動かされ、心がうろたえたりもするわけですが、そのとき、揺れ動く心を支え、そこから自分の力でその経験について思考し、捉え返すために支える「知」こそが、私が「学ぶこと」と言うときに中核をなすものです。いまでこそ、そのような「知」はアーカイブが容易になされますが、それでも、そうした「知」をストックし、それにアクセスできるような場やインフラは必要です。また、アクセスした人たちが相互に議論できる空間も必要でしょう。それが学校や教育である必要はまったくありませんが、私は、私が言う「学ぶこと」を否定する理由はないのではないかと思っています。

■障害児が普通学校で学ぶことや、夜間学校について
 もうひとつ常野さんにお伺いしたかったのは、「どんなに重い障害があっても、地域の学校で同世代の健常児と共に学びたい」ということを、どのように捉えられていたのかな、ということです。
 私は、障害があっても、無理してまで普通学校の普通学級という、差別を前提とした教育システムに組み込まれることはないだろうと思っています。ましてや、障害者運動の正当化のために、障害のある児童生徒が無理やり登校させられるのには反対です。そういうときには、「学校制度/教育制度」から撤退して、不登校していいんだよと言ってあげたいです。
 また、よく障害者で「健常児にもまれるから普通学級がよい」という意見を言う人がいますが、それは、その人が事後的に振り返ることができるからこそそのように言えるのではないでしょうか。「もまれて過ごす」のに耐えられない人だっているでしょう。昨今「スクールカースト」などと呼ばれるような事象を見ていても、「もまれている」当事者がそこから逃げたいと思うのは、むしろ当たり前のことなのではないでしょうか。
 しかしながら、普通学級で学びたいという障害児本人や家族があれば、その希望は誰にも止める権利などない、と考えています。ここでの「学び」として考えられるのは、障害児にとっては、同世代の健常児たちと触れ合うという経験、健常児にとっては、クラスのなかに障害児が当たり前のようにいるという経験です。こうした経験は、お互いにとって卒業後生きていくなかで必要な経験であると私は思っています。教科教育よりも大切であるとすら言えると私は思っています。
 インクルーシブ教育を推進する側からは、こうした「子ども同士の学び合いが行なわれてハッピーエンド」みたいな描かれ方がなされたりもしますが、実はここでクラス担任、つまり教師による働きかけというものがとても重要なのではないかと、私は思っています。子ども同士でハッピーエンドになり、大人たちが教えられることもありますが、たいていの場合は大人が介入しなければなりません。そして、たいていの場合、そこで大人が間違うのです。教師とて、その多くは差別を前提とした社会のなかで生きてきたわけですから、よほど差別に対する感性が強い人でない限りは、障害児を「お客様扱い」したりします。人生は卒業後も続くわけで、そういう意味においては学校/教育の中で「エンド」などあり得ません。しかし、そのなかで少なくとも「ハッピー」でいられるためには、子どもたちが障害を理由とした差別やいじめを行っていたときに、教師は毅然とした態度で接していかなければならないと思います。
 障害児も健常児も、「学校に行く/教育を受ける」期間だけ生きているのではありません。「その後」の人生のほうが長いのです。障害児と健常児とが分けられたままの「学校/教育」では、お互いのことを知ることができません。そうした「学校/教育」こそが社会のなかで障害者と健常者とを分けることを再生産しているのです。だからこそ、障害児も健常児もまぜこぜで「学ぶこと」が可能な場が必要である、そのように私は思うのです。そしてそうした「学び」によって、障害児も健常児も「根源的な受動性からの主体的な批判性の創造」が可能になるのではないかと考えます。もちろん、そこで教師の意義というものは重要になってきますし、そうしたことが行なわれるのであれば「学校制度/教育制度」の枠に当てはまる必要などどこにもないと思います。
 同様なことは、夜間学校にも言えるのではないでしょうか。高齢になって、教科科目を学べなかったから学びたいということを実現するということももちろん大切なことです。しかし、私が言う「学ぶこと」の意義から考えれば、違う世代の人たちが、教科教育を介することによって、新しい世界とどうしようもなく出会ってしまうということは、とても大きな意味のあることだと言えるでしょう。障害児と健常児とのインクルーシブであれば、同世代の人たちが中心で、そこには「同じ世代の障害者も健常者も同じ地域に住んでいて当たり前」という意識を醸成させるという目的があります。それに対して、夜間学校では世代、職業など、広範な「違い」が現実にあります。どちらにせよ、「自分と異質の者との出会い」を経験することが、私の言う「学ぶこと」の原初的な形であると言えます。
 そのように考えたときに、学校を廃棄すること、教育を廃棄することは、とても惜しいことなのではないかと、私などは思ってしまうのです。常野さんが正しく指摘するように、「この社会全体を変えることが必要」だと、私も思います。そして、現在の「学校制度/教育制度」が、植民地主義、健常者中心主義、家父長制、資本主義、異性愛主義等々を疑うことなく前提としていると、私も思います。しかし、そのなかから、私の言う「学ぶこと」こそが教育という営為の中核にあるべきならば――少なくとも私はそう思っているのですが――、教育というものもまだまだ捨てたものではないと、教員をやっている私などは思ってしまうのです。そうした前提を疑い、隙あらば変えていこうとすることこそが、私が考える「学ぶこと」であり、現在の「学校制度/教育制度」を解体していくものにつながっていくのではないでしょうか。現在の「学校制度/教育制度」は、人々を「学ぶこと」から遠ざけてしまっていると、私は思っています。

 常野さん、私は甘いでしょうか?
 常野さん、一度でいいから聞いてほしかった。
 常野さん、私は教員という立場の自己正当化をしているだけでしょうか?

 常野さんがいなくなったいま、学校は必要なのか、教育は必要なのか、必要であるとすればそれはどういう意味においてか、それは学校に行かない/行けない人たちを否定するものではないのか、改めて私たちに突きつけられた問いなのではないでしょうか。そして、この社会においてすべての人が、どうすれば息苦しくなく、十全に生を送ることができるのか、どういう社会なら、それが可能なのか。そうした問いを、少なくとも私は真に受けて考えていきたい、そのように思っています。

 

2018年5月4日 野崎泰伸

*1:事実の訂正をします。常野さんがそうおっしゃっていたわけではなく、そういう話の場に常野さんがいらしゃったということです。ここに訂正し、誤解を招いたことに関し謝罪いたします。

私にとっての常野雄次郎さん/貴戸理恵

■出会い

私が常野雄次郎さんと出会ったのは、2002~2003年、『不登校は終わらない』のインタビューがきっかけでした。不登校新聞に連載された「社会の中の登校拒否」を読んで、「不登校への差別は学校に行っている人の特権と無関係ではない。学校に行く・行かないを選べればよいとする主張は、その抑圧関係を問題化できない」という趣旨の発言に衝撃を受け、連絡しました。フリースクールの「選択」の主張に違和感を覚えていた私にとって、その違和感について議論できる、数少ない仲間でした。
当時、「よりみちパン!セ」というシリーズで本を書かないかと提案されていた私は、「一緒に書こう」と常野さんを誘いました。清水檀さんというベテラン編集者がついてくださり、『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』という本ができました。

この本を通じて、私たちの人間関係は広がっていきました。不登校関係者からはあまり反応をもらえなかったけれど、障害学や非婚運動など異なった主題で似た立場にいる人、つまり運動体のマスターナラティブに違和感を持つ人によって、もっとも適切に読まれた面があったと思います。そんなとき言及されるのは、あの本の多くを占める私が書いたパートではなく、常野くんが寄せてくれた「選択」の欺瞞をあばく一つの章でした。

選んだわけじゃないんだぜ、選べることがゴールじゃないんだぜ、って、今ますます重要になってきている主張ではありませんか。

常野さんは早いうちからそのことに気づき、ラディカルに主張し続けていました。しかも、「選択」を主張するフリースクールを愛しながらそれをするという、あたたかな複雑さを備えていました。

 

■思い出

生きづらさを抱える人には、いろんな人がいますが、常野さんは底抜けに優しい人だったと思います。私に対して寄せられた、小さな、決定的な優しさを思いつくままに挙げます。

『選んだわけじゃないんだぜ』を書いていたとき(2004年末くらい)、常野さんは締め切りを守りませんでした。後倒しにした締め切りがすぎても原稿があがらず、新米の書き手だった私は、出版社からの督促とのあいだに立ってハラハラしていました。そして、ぎりぎりまで待って原稿をもらえなかったところで、最終的な修正や調整を私がやって形にしました。もちろん常野くんの文章はそのままで、接続をよくしたり多少配置をいじったりしただけですが、やはりご本人は違和感もあったのでしょう、「貴戸さんが最終調整を加えたことを、本のどこかに書いて欲しい」と言われたので了解していました。

ところが、そんなことをしているうちに、当時2ヶ月前に出版されていた私の『不登校は終わらない』に対して、東京シューレから批判が寄せられました。そこには、「著者がフリースクールの出身者を誘導して、フリースクールに批判的なことを言わせた」というニュアンスが含まれていました。私としてはそのようなつもりはなく、そこから批判への応答に追われていきました。それを知った常野さんは、「貴戸さんが調整を加えたということは、書かなくていい。自分の文章として引き受ける」と言いました。『選んだわけじゃ』に対しても、「貴戸が常野さんを誘導して自分の主張に都合のいいことを書かせた」という疑いが向く可能性を、自分の違和感を脇において、防いでくれたのです。それは当時の私にとってとても大きいことでした。あのとき私はきちんとお礼を言えたのだったでしょうか。

東京シューレから『不登校は終わらない』に対して寄せられた批判とその後の経緯については、常野さんは当時から「貴戸への人権侵害」という言い方をし、さまざまに動いてくれようとしていました。もともと私に向けられていた嫌悪や非難の幾分かを、そのためにとばっちりを受けて常野さんが被った場面もあったと記憶しています。申し訳なくもありがたくも心から思うと同時に、あの行いの背後には、東京シューレに対する常野さんの強い愛情があったのだろうと、いまは推察します。

また、私が就職して関西に移ってからすぐ(2009年秋くらい)、友達と二人で西宮北口のアパートに泊まりに来てくれたことがありました。みんなで話したり、ごはんを食べたり、加藤登紀子の革命っぽい曲を聴いたりして、出発する次の日に彼が言ったせりふ。

「泊めてくれてありがとう。僕だけならともかく、僕の友人だという理由でAちゃんまで泊めてくれて感謝してる」

こういう言い方の細部に人柄が出るなぁと感じたことを覚えています。相手の立場に立って考える、おおらかで余裕のある感じ。こういうのを「育ちのよさ」というのでしょうか。

娘が生まれたときには、横浜の実家まで来てくれて、抱っこしてくれて、「新しく地球に来た人」と呼んで祝福してくれました。

2017年の年末は、どうしたのか、ちょこちょこ電話してきてくれました。「希死念慮がある」という話をするときさえ、「こういうことを言っても僕は自殺はしないから、そういう心配はしないでほしいんだけど」という前置きを、必ずつけていましたね。相手に配慮などしている場合ではきっとなかったのでしょうに。

 

■思想

私がまだ関西学院大学に赴任して来る前、新宿でバイトしながら鬱屈としていた時代(2007年くらい)に、常野さんが、私物の菜摘ひかるのエッセイと漫画『働きマン』を「これおもしろいよ。僕何回も読んじゃったよ」と言ってくれたことがありました。風俗嬢とキャリアウーマンの違いはあれ、二冊とも勤労意識の高い女が働きまくる話です。読み終わって「ああこの人、一生懸命働いたりするの本当は好きなんだろうな」と思いました。

常野さんは、一生懸命勉強したり、研究して発見して思考を深めたりすることも、本当は大好きだったのではないでしょうか。そして、そのことをまっとうできなくする精神と身体の生きづらさに苦しくなるとともに、一方ではどこか深いところで、そういう勤勉な自分を許せないような、恥じるような思いを持っていたのではありませんか。

最後となった不登校新聞のインタビューで、編集者・インタビュアーの山下耕平さんが、登校拒否をネガティブなものと位置づけた上で肯定しきろうとする常野さんの思想に触れて、「自身の経験として、そうとしか語れないというよりも、そう語らねばならないというような意志を感じる」と言っています。私もそのように感じます。そして、「そう語らねばという意志」がどこからくるのかを想像するとき、「これは自己否定の思想だ」という直感的な感想を持ってしまいます。

生きづらさを抱えて物書きになる人には、自分を受容し肯定するために思考をつむぐ人も多いでしょう。生きづらさを産む社会の構造や、その社会に足場を得て権力を行使する支援者や専門家、そしてもっと多くの「普通に」暮らしている人を、批判する方向に向く人も多いでしょう。

だけど、常野さんはそうではなかった。「日本人の男性」という自分の立場の加害性に厳しく目配りしながら、日本のエスニックマイノリティやジェンダー/セクシュアル・マイノリティに共鳴しその権利を主張していきました。ポジショナリティを関係的に規定される構造的なものだと捉えるかぎり、自分は「強者=加害者」の立場に固定的につなぎとめられてしまい、自己否定的になるしかなくなるのに、あえてそのように思想を育てていきましたね。

そこに何があったのでしょう。

不登校に携わる者のひとりとして、私が知りたかったのは、そういう常野さんの思想に、不登校の経験が、本当のところ、どんなふうに関わっていたのかということです。それは、自分をマイノリティの側に立たせてくれる足場だったのでしょうか。でも、不登校の文脈においてさえ、勤勉な常野さんは学歴エリートでしたね。自分をマイノリティの側に立たせた足場においてさえ、マジョリティ側のような痛みを抱えていたようにも見えます。

不登校経験を持つ高学歴者という点でおそらく同じ足場を共有している私は、常野さんとは違って、自分が生きやすいほう、心地よいほうにばかりどんどん向かっていって、そのせいで踏みにじったものも見なくしているものもたくさんあって、それ以外の生き方が怖くて、子どもや仕事を言い訳にしながら、それでも自分を肯定する以外の道がわからず今も生きています。常野さんはそれを知っていて、いつも優しかったけど、この私のずるさを本当のところはどんなふうに見ていたのでしょうか。

そして、友人としては、上に記したような底抜けの「優しさ」が、あえて自分を加害者側に置くという自己否定の思想に通じていたような気もしていて、そうだとすれば、そこには痛みを覚えます。

こういう話を、不登校新聞のインタビューで出来ればよかったのかもしれません。でも、私の方も言葉になっていなかったし、あのとき聞いてもなかなか先に進めなかったようにも思います。もっと時間があったらよかったのに。

 

■お別れ

2017年12月27日、私が他の用事で東京に行ったとき、「ついでに会おうよ」と言っていたのに、「やっぱり新宿出るのめんどくさいからFace Timeにしよう」と言い出して、「何だよーせっかく東京いるのに、だったら私が多摩センターまでいくよ」と言って1時間だけ、会いに行きました。「貴戸さんフットワーク軽いね」「フィールドワーカーだからね」という話をして。そのときにも、「まじで人民新聞やばいから支援してあげてよ。あ、でも警察に電話とかするんじゃなくね。貴戸さんの名前が公安のリストに載っちゃうから」とか言ってました。それが最後です。

 

常野さん。あなたのことを悼む人がたくさんいて、訃報を受け取ってからというもの、私のところには「常野さんの言葉」の手がかりを求める連絡が入ることがあるのですよ。読者は確かにいたのです。

不登校、選んだわけじゃないんだぜ!」の続編、書きたかったね。

 

2018年4月24日 貴戸理恵

ずるく、情けなく、ごまかしもあるけれど……/山下耕平

私は、常野雄次郎さんと個人的なつきあいがあったわけではない。不登校新聞で1999年に常野さんに連載をしていただいていたときに、私は編集長をしていて、それが最初だった。その後、考えなければならないことがいろいろとあったのだが、不登校新聞の立場として書かなければならないことは、別に書いたので、よかったら、そちらをお読みいただきたい(→『不登校新聞』481号/2018年5月1日)。

昨年夏、不登校50年証言プロジェクトで常野さんにインタビューさせていただいた。きちんと対話をしたいという思いが強かったあまり、私は、インタビュアーとしては話しすぎているし、くどいほど食いさがったところがある。こんなことを言うのはおこがましいのだが、このインタビューをきっかけに、常野さんの問いを、不登校運動に関わってきた人たちと考え合えるものにしたいという思いもあった。いまだったら、そういう対話も可能なのではないかと。

しかし、それはかなわなかった。記事を公開したのが3月22日、それからまもない3月30日、常野さんは急逝されてしまった。肝不全から多臓器不全になったとのことだった

記事を公開する前の3月19日、入院されていた病院に、お見舞いにうかがった。そのとき、常野さんはかなり苦しそうにされていて、でも、目だけは強い光をはなっていた。息をするのも苦しそうな状況で、あまり長くは話をすることも、込み入った話をすることもできなかったのだが、「山下さんはご実家はどちらですか?」「ご両親は健在ですか?」と聞いてくださったので、「埼玉県なので、これから帰ります」とか、そういう会話を交わした。活字やネットで見せる挑発的な姿の一方で、生身の常野さんは、こまやかに気づかいをされる方だったのだと思う。常野さんのお母さんとも少しだけお話ししたのだが、「医者からは覚悟するように言われているんですけど、気持ちが強いのか、それでもっている状態です」と、おっしゃっていた。おそらく、本人も覚悟はされていたのだと思う。それゆえの目の光だったのかもしれない。

常野さんは、インタビューで「it will get better(そのうちよくなる)」という言葉より、「it could get worse(悪くなるかもしれない)」という言葉のほうが大事だと語ってた。それは、常野さんが言う、登校拒否をネガティブなものとして肯定することと同じだろうし、常野さんの一貫した思想だったように思う。悪くなった状態を美化したり、気休めを言うのではなく、そのまま肯定するということ。

私は、常野さんにとって何がそんなにworseなのか、それは登校拒否の経験とダイレクトにつながったものなのかと、執拗に食いさがった。常野さんは「精神の病が問題ですかね。あと、バイトは再開するかもしれませんが、現時点で無職で、障害年金はもらっていますが、将来の経済的な心配があります」と話されていた。しかし、言葉にされなかっただけで、ご自身の身体の限界を、どこかで感じていたのかもしれないと思う。

常野さんの思想は、突きつめていけば「自己否定」にならざるを得ず、それゆえ生きることの「ずるさ」を照射し続けるものでもあったように思う。その思想、その言葉は、鋭く厳しく、私たちのずるさを射貫く。

でも。

生身の常野さん自身は、どうだったのだろうと思う。どこか、ご自身に対しても、無理を重ねていたところがあったように、どうしても私は感じてしまう。だから、常野さんの死を美化したくはない。それも、常野さんの生きた道筋だったのだろうと思いつつも……。

そして、生きることはずるいことだと、自分を恥じつつ思う。生身の自分のずるさを恥じつつも許しつつ、なおかつラディカルな問いも手放さないで生き、その問いを共有できる関係や場をつむいでいくことができないか。私はそのへんで試行錯誤を重ねている。

常野さんには、「それはずるいですよね」と言われるだろうけれど。

もう一度だけ、食いさがって常野さんに質問できるとしたら、私は聞きたい。

「生きることは不自由で、ずるく、情けなく、ごまかしもあるものだ。そして、そのようなものとしての生を肯定するのだ/肯定できるだろうか?」

2018年5月1日 山下耕平

黒雲の上には青空が/小沢牧子

常野雄次郎 様

 

とつぜんの手紙、失礼いたします。以前にお目にかかった小沢牧子です。ごぶさたしておりました。

いま、ご入院のよし、山下耕平さんからうかがい、ご体調を案じながら、ご入院先におたよりさせていただく次第です。

このたび、山下さんから常野さんのインタビュー記録を送っていただきました。深い感銘を受けたことをお伝えします。その感銘は、たとえて言うなら、黒く重くたれこめた時代の雲のあいだに、ひときれの澄んだ青空を見るすがすがしさでした。やっぱりこの世は捨てたものではない、という励ましを見いだしたような。大げさなようですが、それが正直な読後の気持ちです。

自分のみっともなさを言うなら、すべてをごまかしながら生きてきて、老いてなお、そんなふうに「平穏」に生きてしまっていますが、しかし黒雲の上には青空があり、足もとのコンクリートの下に土があることを忘れたことはなく、それらを改良の方法でとりもどすことは、もちろんできないと思っています。

記事の最後の節の常野さんのことばは、あまりにも自然で勇敢で優しく、説得的です。しかしそれが不思議にも聞く人々に届きにくいものなのだということもまた、この記録全体を読んで、あらためて感じたことです。

でも大丈夫、この記録の持つ価値は、ゆっくりと静かに広く、届くべき人に届いていきます。シリーズに、この一稿の入ったことが、どれほどよかったか。ほんとうのことに光が当たり、そこに希望が生まれているからです。

登校拒否には、おっしゃる通り、子どもからの革命の表現を含んでいます。子どもはこの先に生きていく時代のいまと未来を実に鋭く感知する生きものだと、私は常に感じてきました。この学校=社会はイヤだ、どうにかしたい。しかし親というものは保守的存在の代名詞で、共闘の望みはほとんどの場合、ない。ラジカルにものを見、考える視座を親は失いがちだからです。

それであるのに、その条件のもとで学校=社会の本質を見抜き、テーマの追求をつらぬき通して大人になった人が少なくともひとりいた。この世は捨てたものではない、ということばが私に浮かんだゆえんです。

どうかこの手紙が「ゲバラのTシャツってかっこいいね」というようなものに、少しでもつながっていませんように。感謝を込めて。

2018年3月31日 小沢牧子


※このお手紙は、病院宛に送られたものですが、常野さんは3月30日逝去されたため、ご本人に届くことはありませんでした。小沢牧子さんから追悼メッセージに入れてよいというご了解を得たので、ここに掲載いたします。(山下耕平)

常野雄次郎さんを悼む/佐々木賢

常野雄次郎さんを悼む

 

私はあなたにお会いしたことがありません。山下耕平さんから送られてきた「不登校50年証言プロジェクト」を読んで、この人に会って話をしたいと思い、病院に行きましたが、看護師さんに「その方は昨晩、亡くなられました」と告げられました。残念でした。

 

昨今、学校を疑う人々は比較的多くなりましたが、教育を疑う人はまだまだ少ない状況です。そのなかで、あなたはご自分の体験を踏まえて、支配的価値観である教育を疑いつつ、自分で学ぶことを選びました。これは重要なことです。近代に始まった教育資格や学歴やプログラム化された予定調和的なシラバスに従うのではなく、可変的で柔軟で自由な空間で、対話し、遊び、出来事を楽しみながら生きようとしました。

 

生身の人間が消費社会のなかで家畜のように「生きて」いるので、あなたはさぞ住みにくかったでしょう。これからは安らかに眠ってください。

 

2018年4月16日 佐々木賢