私にとっての常野雄次郎さん/貴戸理恵

■出会い

私が常野雄次郎さんと出会ったのは、2002~2003年、『不登校は終わらない』のインタビューがきっかけでした。不登校新聞に連載された「社会の中の登校拒否」を読んで、「不登校への差別は学校に行っている人の特権と無関係ではない。学校に行く・行かないを選べればよいとする主張は、その抑圧関係を問題化できない」という趣旨の発言に衝撃を受け、連絡しました。フリースクールの「選択」の主張に違和感を覚えていた私にとって、その違和感について議論できる、数少ない仲間でした。
当時、「よりみちパン!セ」というシリーズで本を書かないかと提案されていた私は、「一緒に書こう」と常野さんを誘いました。清水檀さんというベテラン編集者がついてくださり、『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』という本ができました。

この本を通じて、私たちの人間関係は広がっていきました。不登校関係者からはあまり反応をもらえなかったけれど、障害学や非婚運動など異なった主題で似た立場にいる人、つまり運動体のマスターナラティブに違和感を持つ人によって、もっとも適切に読まれた面があったと思います。そんなとき言及されるのは、あの本の多くを占める私が書いたパートではなく、常野くんが寄せてくれた「選択」の欺瞞をあばく一つの章でした。

選んだわけじゃないんだぜ、選べることがゴールじゃないんだぜ、って、今ますます重要になってきている主張ではありませんか。

常野さんは早いうちからそのことに気づき、ラディカルに主張し続けていました。しかも、「選択」を主張するフリースクールを愛しながらそれをするという、あたたかな複雑さを備えていました。

 

■思い出

生きづらさを抱える人には、いろんな人がいますが、常野さんは底抜けに優しい人だったと思います。私に対して寄せられた、小さな、決定的な優しさを思いつくままに挙げます。

『選んだわけじゃないんだぜ』を書いていたとき(2004年末くらい)、常野さんは締め切りを守りませんでした。後倒しにした締め切りがすぎても原稿があがらず、新米の書き手だった私は、出版社からの督促とのあいだに立ってハラハラしていました。そして、ぎりぎりまで待って原稿をもらえなかったところで、最終的な修正や調整を私がやって形にしました。もちろん常野くんの文章はそのままで、接続をよくしたり多少配置をいじったりしただけですが、やはりご本人は違和感もあったのでしょう、「貴戸さんが最終調整を加えたことを、本のどこかに書いて欲しい」と言われたので了解していました。

ところが、そんなことをしているうちに、当時2ヶ月前に出版されていた私の『不登校は終わらない』に対して、東京シューレから批判が寄せられました。そこには、「著者がフリースクールの出身者を誘導して、フリースクールに批判的なことを言わせた」というニュアンスが含まれていました。私としてはそのようなつもりはなく、そこから批判への応答に追われていきました。それを知った常野さんは、「貴戸さんが調整を加えたということは、書かなくていい。自分の文章として引き受ける」と言いました。『選んだわけじゃ』に対しても、「貴戸が常野さんを誘導して自分の主張に都合のいいことを書かせた」という疑いが向く可能性を、自分の違和感を脇において、防いでくれたのです。それは当時の私にとってとても大きいことでした。あのとき私はきちんとお礼を言えたのだったでしょうか。

東京シューレから『不登校は終わらない』に対して寄せられた批判とその後の経緯については、常野さんは当時から「貴戸への人権侵害」という言い方をし、さまざまに動いてくれようとしていました。もともと私に向けられていた嫌悪や非難の幾分かを、そのためにとばっちりを受けて常野さんが被った場面もあったと記憶しています。申し訳なくもありがたくも心から思うと同時に、あの行いの背後には、東京シューレに対する常野さんの強い愛情があったのだろうと、いまは推察します。

また、私が就職して関西に移ってからすぐ(2009年秋くらい)、友達と二人で西宮北口のアパートに泊まりに来てくれたことがありました。みんなで話したり、ごはんを食べたり、加藤登紀子の革命っぽい曲を聴いたりして、出発する次の日に彼が言ったせりふ。

「泊めてくれてありがとう。僕だけならともかく、僕の友人だという理由でAちゃんまで泊めてくれて感謝してる」

こういう言い方の細部に人柄が出るなぁと感じたことを覚えています。相手の立場に立って考える、おおらかで余裕のある感じ。こういうのを「育ちのよさ」というのでしょうか。

娘が生まれたときには、横浜の実家まで来てくれて、抱っこしてくれて、「新しく地球に来た人」と呼んで祝福してくれました。

2017年の年末は、どうしたのか、ちょこちょこ電話してきてくれました。「希死念慮がある」という話をするときさえ、「こういうことを言っても僕は自殺はしないから、そういう心配はしないでほしいんだけど」という前置きを、必ずつけていましたね。相手に配慮などしている場合ではきっとなかったのでしょうに。

 

■思想

私がまだ関西学院大学に赴任して来る前、新宿でバイトしながら鬱屈としていた時代(2007年くらい)に、常野さんが、私物の菜摘ひかるのエッセイと漫画『働きマン』を「これおもしろいよ。僕何回も読んじゃったよ」と言ってくれたことがありました。風俗嬢とキャリアウーマンの違いはあれ、二冊とも勤労意識の高い女が働きまくる話です。読み終わって「ああこの人、一生懸命働いたりするの本当は好きなんだろうな」と思いました。

常野さんは、一生懸命勉強したり、研究して発見して思考を深めたりすることも、本当は大好きだったのではないでしょうか。そして、そのことをまっとうできなくする精神と身体の生きづらさに苦しくなるとともに、一方ではどこか深いところで、そういう勤勉な自分を許せないような、恥じるような思いを持っていたのではありませんか。

最後となった不登校新聞のインタビューで、編集者・インタビュアーの山下耕平さんが、登校拒否をネガティブなものと位置づけた上で肯定しきろうとする常野さんの思想に触れて、「自身の経験として、そうとしか語れないというよりも、そう語らねばならないというような意志を感じる」と言っています。私もそのように感じます。そして、「そう語らねばという意志」がどこからくるのかを想像するとき、「これは自己否定の思想だ」という直感的な感想を持ってしまいます。

生きづらさを抱えて物書きになる人には、自分を受容し肯定するために思考をつむぐ人も多いでしょう。生きづらさを産む社会の構造や、その社会に足場を得て権力を行使する支援者や専門家、そしてもっと多くの「普通に」暮らしている人を、批判する方向に向く人も多いでしょう。

だけど、常野さんはそうではなかった。「日本人の男性」という自分の立場の加害性に厳しく目配りしながら、日本のエスニックマイノリティやジェンダー/セクシュアル・マイノリティに共鳴しその権利を主張していきました。ポジショナリティを関係的に規定される構造的なものだと捉えるかぎり、自分は「強者=加害者」の立場に固定的につなぎとめられてしまい、自己否定的になるしかなくなるのに、あえてそのように思想を育てていきましたね。

そこに何があったのでしょう。

不登校に携わる者のひとりとして、私が知りたかったのは、そういう常野さんの思想に、不登校の経験が、本当のところ、どんなふうに関わっていたのかということです。それは、自分をマイノリティの側に立たせてくれる足場だったのでしょうか。でも、不登校の文脈においてさえ、勤勉な常野さんは学歴エリートでしたね。自分をマイノリティの側に立たせた足場においてさえ、マジョリティ側のような痛みを抱えていたようにも見えます。

不登校経験を持つ高学歴者という点でおそらく同じ足場を共有している私は、常野さんとは違って、自分が生きやすいほう、心地よいほうにばかりどんどん向かっていって、そのせいで踏みにじったものも見なくしているものもたくさんあって、それ以外の生き方が怖くて、子どもや仕事を言い訳にしながら、それでも自分を肯定する以外の道がわからず今も生きています。常野さんはそれを知っていて、いつも優しかったけど、この私のずるさを本当のところはどんなふうに見ていたのでしょうか。

そして、友人としては、上に記したような底抜けの「優しさ」が、あえて自分を加害者側に置くという自己否定の思想に通じていたような気もしていて、そうだとすれば、そこには痛みを覚えます。

こういう話を、不登校新聞のインタビューで出来ればよかったのかもしれません。でも、私の方も言葉になっていなかったし、あのとき聞いてもなかなか先に進めなかったようにも思います。もっと時間があったらよかったのに。

 

■お別れ

2017年12月27日、私が他の用事で東京に行ったとき、「ついでに会おうよ」と言っていたのに、「やっぱり新宿出るのめんどくさいからFace Timeにしよう」と言い出して、「何だよーせっかく東京いるのに、だったら私が多摩センターまでいくよ」と言って1時間だけ、会いに行きました。「貴戸さんフットワーク軽いね」「フィールドワーカーだからね」という話をして。そのときにも、「まじで人民新聞やばいから支援してあげてよ。あ、でも警察に電話とかするんじゃなくね。貴戸さんの名前が公安のリストに載っちゃうから」とか言ってました。それが最後です。

 

常野さん。あなたのことを悼む人がたくさんいて、訃報を受け取ってからというもの、私のところには「常野さんの言葉」の手がかりを求める連絡が入ることがあるのですよ。読者は確かにいたのです。

不登校、選んだわけじゃないんだぜ!」の続編、書きたかったね。

 

2018年4月24日 貴戸理恵